演技者・・・絆を築けない人たち

人は演技をすることがある。
演じて見せるということだ。
その場を繕うために大げさに、それほど思ってもいないことを相手に演じて見せることがある。
そのようにして人間関係を円滑にしようとしていることは意外と多いかもしれない。

演技するとは役を演ずることであり、聖書に出て来る「偽善者」もこの類である。
私たちは、特に日本人なのか、相手とのよい関係、または自分がよく認識されるために、演技することは多いと感じる。

よく演技する者は、案外そっけない。
心を寄せ、共感しているように見えるが、本人がもう演じる必要が無いと判断すると、あっさり離れて行くことがたびたびある。
相手への共感や思いやりではなく、本人が自分を保ち、守るために行動していたようだ。

また自分の気持ちが高まったときなどは、熱心な姿勢を示すこともあるが、冷めるとあたかも自分は関係ありませんでしたと言わんばかりに変わることもたびたびある。
自分にとって面倒なことは御免のようだ。

よく演技する人とは、絆を築くことが難しい。
彼らはそもそも人との絆など求めていないのかもしれない。
いつも自分がどのように人から認識されているかを守ることが優先事項のようだ。
人との関係や絆以上に「自分」のようだ。

時に一歩前進した人間関係を求めようと手を差し伸べたりすると、その手が虚しく空を掴むような状態になることがある。
まあ、余計なお世話だったのかもしれないが・・・

しかし、彼らはやたら自分から共感などを求めてくることもある。
それらに応えてはみても、こちらからの働きかけには応えることは少ない。
自分からよく求めはするが、自分からは与えはしないようだ。

相手のことを見ようとはせず、自分の状態で多くを判断し、取り入れたり、切り捨てたりを平然とできるようだ。
自分にとって得であるか、損であるかでの判断基準が強いのかもしれない。
その人の生き方だから、それでよいのだろう。
相手に応えなければならないという義務はない。

しかし私は思う。
自分のことばかりで、自分中心で回していく人は、人との関りが希薄である。
自分と同じ人間と関わるのであれば、相手を自分と同じように考えることを努めようとすることは最低限必要なことではないだろうか。
私自身が偉そうに言えることではないが、心構えとしては持っていたい。

人間はだれも自己中心の性質がある。
しかし、自分の忙しさ、悲しさ、悩みを理由に自分だけでいっぱいになり、相手を軽んじたり、利用するようになるのであれば、本人の問題も否めない。

私たちはだれも人と関わる限り、少しずつでも大人になって行かなくてはならない。
子どもは相手の思いを知らず、想像せず、自分のことだけ考えて行動する。
しかし、自分とともに相手を考えて行くことができるようになるのが、大人の一側面ではないだろうか。

子どものまま大人になった人たちは、その生き方が固まっている場合がある。
それが自分という人格になっているのだから、自分でも気づかない。
また今さら批判されたりしても受け入れることができない。

いつもどこかある程度決まったところで人間関係などにつまずくことを繰り返している場合もある。
人間関係がある程度までしか続かなかったり、同じような衝突を繰り返したり、同じような悩みも繰り返したりする。
そこから見つめ直して学ぶことができればよいが、いつも自分を「悲劇のヒロイン」にしている場合がある。
自分に酔っていたり、強いナルシストであったり、自分の感情や気持ちによるところが大きいのも特徴かもしれない。

感情も大切だが、現実の状況をしっかりと受け入れることも重要である。
現実を受けれいないでいつまでも自分の思いを優先している人は、いつの間にか子どものまま年齢を重ねていて、後戻りできないところに来ていることもある。

本当の幸せとは何なのか。
自分の理想や夢を実現させることなのか。
現実を受け止めて、その中から幸せを感じることかもしれない。

自分で感じ、動き出すしかない。
本人が自分にとって何が重要で必要な行動かを理解し、実践するしかない。
人のせいにも、人を動かすこともできない。
人には自分の行動と自分で何を思うかの自由が与えられている。

彼らはその自由を何かに縛られているかもしれない。
自分に与えられている自由を自分の成長のために使いたい。

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