子どものころ、幼稚園や学校には威張っている人が同じクラスに一人や二人、いたものだ。
学校では、この威張る子どもが一つのクラスに集まることのないように分散させてクラス構成をしているようだ。
大人になれば、威張ることが大人げないことであることが認識され、人前で威張る人はあまり見られなくなる。
しかし、大人になっても威張る性質を残す人は、自分が威張ることのできる人間関係でその力をまだ発揮しようとする。
自分の力で支配することのできそうな人間関係、団体、ときに家族関係で、威張り、自分の好きなようにその集まりの人間を動かそうとしている。
自分の力を及ぼすことのできる縄張りを捜しまわっている。
その人は、ある人間の集まりで自分の力をおよばせると、自分の力での支配をあらゆる方法で徹底的に進めて行く。
大人なので、子どもと違ってあらゆる知恵や方法を使って行うからたちが悪い。
学校であれば教師がいて、ある程度抑制されていたのだが、大人になってからは学校の先生のような絶対的に自分に影響を及ぼす存在がいなくなり、やりたい放題という場合がある。
このように支配欲が強く、威張る大人は厄介であり、本人の知らない所でその集団に属する人はあらゆる迷惑をこうむっている。
本人はみんなのためにしていると自負してばかりで、人々の本心を知らず、自分しか見えていない未熟でわがままな存在である。
「威張る」の意味は時点によると次のとおりである。
威勢を張って偉そうにする。
「威勢」とは、人を恐れさせる力のことだ。
つまり、人を恐れさせて偉そうにすることが、「威張る」ということである。
「威張る」とは、その字の中に「張」という字が含まれるように、「張る」ことに関係する性質を持っている。
その例は、「(他人と)張り合う」、「意地を張る」、「頑張る」、「見栄を張る」、「虚勢を張る」、「威勢を張る」、「我を張る」、「主張する」
威張る人は、いつも自分を張っているのである。
「張る」を辞書で調べるとたくさんの意味があることが分かるのだが、その中でいくつかをあげておく。
・大きく見せようとしてふくらせる。
・強く盛んにする。
・度を越す。
・はりあう。対抗する。
これらの意味は、威張る人の特徴としてあげられる。
そして「張」という単漢字には、次のような意味がある。
・意見などを大いに打ち出す。
主張が強いということだろう。
こちらも威張る人によく見られることである。
威張る人は、いつも誰かに対して張っているのだ。
つまり、いつも人を意識して自分が動いている。
自分が動く動機は、相手をどのように自分の思うようにするかなのだ。
その人の威張るエネルギーはいつも、人に対する自分の意識である。
威張る人は、いつも相手や周りの人々の出方をうかがい、ときにけん制して行動している。
威張る人は、相手が何もしていないのにやたらと自分から関わりをもってくる。
だから威張る人が一緒にいる場合、自分は何も張り合うつもりが無いのにけしかけられてきたりして被害を受けたり、疲れるのである。
人に対してやたらと張り合い、頑張る人、主張する人、我を張り、威張り、意地を張り、見栄を張る人は、何かその人の中に問題がありそうだ。
人に対してのそういった度を越した言動をとるのは、自己のうちに満たされない何かを、大人になった今なお人に対して求めているようだ。
彼らは弱肉強食の世界に生きようとする人々のようだ。
獣や犬などである。
獣や犬は、自分よりも弱いと分かる相手に徹底的に強気である。
そして自分の存在を脅かしかねない相手に対しては、自分を大きく見せたり、吠えたりうなったりして威嚇するのである。
「弱い犬ほどよく吠える」ということばがある。
小さい犬が、飼い主のもとでやたら強気になって吠えていることがある。
本当は自分が小さく弱いことを知っているが、強気になって吠えているのだ。
また獣や犬は、自分の支配が及ぶ縄張りを持とうとする。
縄張りへの侵入者をにらみつけ、噛みつこうとする。
威張る人にもこのようなところがみられる。
聖書には、神を知らない時の人間がこの獣のようであったことが記されている。
また犬に気をつけるようにも記されている。
つまり、教会ではやたら人に対抗心をもち、威張る人には気をつけるべきなのだ。
その人は、教会で神を見ているようで、人ばかりを意識し、自分の力を及ぼして支配しようとしているからである。
威張る人が自分の支配を及ぼすための手段はいくつもある。
・恩を売る
相手が求めてもいないのにやたら親切にしようとしてくることが多い。
しかしその動機は、恩を売って自分の言うことを聞かせるためである。
・仲間を作り、敵より優位な状況を作る
恩を売って仲間も作るが、何かと人々を自分の方に向けさせようとする。
犬や猿が群れとなり、その中にボスがいるのと似ている。
時に自分の対抗勢力となりそうな存在の悪い話を言い広めたりもする。
・自分の力を誇示する。
これも犬や猿の群れでそのリーダーがとる行動と似ている。
その人間関係やグループが、自分や自分に関係する力でどれだけ支えられているかをアピールする。
自分の力で成り立っているのだから、自分の言うことを聞かなければならないということを示すのである。
・それらしいことを主張する。
それらしいことを強く主張するので、多くの人々にその人の言うとおりにしておいたほうがよいと思わせる。
・やたら活動的
活動にはよく顔を出し、活動するときは自分が中心的でなければ気が済まない。
縄張りをいつも見回って自分をアピールする犬と似ている。
・怒りを露にして人々を困らせる
群れのボスざるが、仲間に対して威嚇するのと同じである。
自分の思うとおりに動かないと、怒りの感情を露にする。
そして人々が自分の思うとおりになるように動くようにする。
幼子がだだをこねるのと変わらない。
威張る人は、やったもの勝ち、言ったもの勝ちの考え方であり、自分の勢いと力に任せて人を恐れさせ、偉そうにする人たちである。
威張る人は、自分の力が人々におよび、人々を支配できることをこの上なく求める人たちである。
クリスチャンで威張る人がいるならば、神の国、神の支配に反して、自分の支配を広めようとしているようなものだ。
その人は、自分では神に従ってあらゆる行動をしていると人々にアピールするが、、本当は神に従っていないのだ。
このように、大人であっても威張る人は、内側に幼児性や獣のような性質をもち、それを大人の知恵をもって発揮している。
人をも自分の思うとおりに動かなければ気が済まない支配欲と自己中心性が強い人である。
このような人が、自分の善意や活動力を売り込んで人々を取り込み、支配する集団では、真によい人間関係の集団になることはできない。
教会であれば、その人間関係の秩序は悲惨なことになる。
威張る人も、本当は自分のまま受け入れられたいようだ。
しかし、威張る人は自分が人から受け入れられる自信がない。
だから威張る。
しかし威張るから余計人から受け入れられない。
自ら悪循環も生じさせている。
そういう人間関係の築き方しか知らないようだ。
自分に威張るところが無いか、本当に周りの人は自分に対して快く思っているのかを考えてみる必要がある。
自分で自分をかき回し、周りの人をもかき回す、台風のような人である。
威張る人が過ぎ去った後は、台風の爪痕のようなものが残って人々は苦労するのだが、当の本人はそんなことはつゆ知らずで自分の縄張りを求め続けるのである。
威張る人は、自分でもその問題を自覚することができない、ある意味病的なところがある。
人がその人を治したり、変えたりすることは難しい。
自分が病人であることを自覚して、医者のところに行くようなことにならない限り、変化は望めない。
自分が的外れな罪人であることを自覚し、イエス・キリストの招きに応じなければ癒されない。
周りの人は、せいぜい、台風に対する対策や備えをするようにして、自分を守る必要が生じる。
本当は周りの人も、台風の中で黙ってじっと家に閉じこもるようなことはしたくないのだが。
台風のさなかで戸や窓を開けたり、外に出て行くと酷いことになるように、威張る人がいるときに無防備に対応すると大変なことになる。
威張る人は、人が意識をしていなくても人をやたらと意識してくる人である。
本当の心の内は、寂しいのである。
威張る人は、本当は自分の居場所や立場が脅かされることを恐怖に感じているのだ。
それを守るために日夜必死になっているだの。
いつも自分の存在の危機を感じ、やたら吠え、虚勢を張っているのだ。
幼いころなのか、やたらと寂しい思いをしたのかもしれない。
その満たしをいまだ目の前の人々に求め続けているようだ。
しかし、人々がそれを本当に満たすことはできない。
人々は威張る人のために、本当はただ我慢をしているだけにすぎない。
神に満たされなければその人は、いつまでも変わらない。
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