キリスト教の救いについて当然のことだが・・・
洗礼を受けているから救われているのではない。
たしかに洗礼を受けているから救われているのだろうと判断することはある。
洗礼は、救われたから受けているはずでもある。
しかし、自分が洗礼を受けたから、洗礼によって救われたわけではない。
多くの人、もしくはクリスチャンは、洗礼を受けた人を見ればその人は救われていると思うのは当然である。
しかし、洗礼を受けていることによって自分は救われているという確信の持ち方をする人が時々いる。
同じく、教会でパンとぶどう酒(液)の聖餐を受けたから、クリスチャンだというのも同じ考え方である。
特に自分が救われているのか、本当にクリスチャンなのかを問いただすために言っているのではない。
自分の救い、自分がクリスチャンであることを、洗礼や聖餐を受けていることで確認したり、自信を持つのはズレているのではないかという問題提起である。
だれが救われていて、だれがクリスチャンかは外から見たら判断することはできない。
聖書によれば、キリストの御霊、聖霊がその人のうちに住む。
内側を新しく造り変え、神の子どもとなる。
だれでも自分のことをクリスチャンだということはできるし、思い込むこともできる。
救われたなら、たしかにその人のうちでキリストがかたちづくられ始めるのだ。
人によって差こそあれ、キリストのことが少しずつ、わずかずつでも確信して分かって来る。
あまり人と比べて自分を疑いすぎないほうがいい。
むしろ静かに、落ち着いて、人と比べずにキリストや十字架のことを考えてみたほうが、分かることが多いだろう。
なかには思い込みの人がいるのかもしれないが、焦ることなく、外側を繕うことなく、内側の本心の部分でキリストを迎えればいいだけだ。
焦り、繕い、人を意識し、見かけを気にするほど遠のくので注意である。
信頼できるクリスチャン、もしくは教会や牧師に尋ねてみてもいい。
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