木には、燃えやすい種類と燃えにくい種類があるようだ。
また、燃えつきがよいが、すぐに燃え尽きて長持ちしないものもある。
それは、スギや松などの針葉樹のようである。
一方で、燃えつきは良くないが、一度火がつくと長時間もえつづけるものものある。
おもにブナ科で、カシやクヌギなどのようである。
これらの木材が、バーベキューなどで使われる炭の材料に多用されるようだ。
焚火などで火を燃やしていると、火が新たな木材に燃え移って行くことがある。
よく燃え移ってくれれば小さくなった火を再び燃え上がらせるのには助かる。
しかし、あまりにも燃え移りすぎて収集がつかなくなれば危険である。
さて、人間の場合でも感情の火がすぐに燃えやすい人がいる。
そして、火が次々と新たな木材に燃え移って行くように、次々と新たなことに感情が燃え移って行く人がいる。
一度着火すると、燃え広がるばかりで収集がつかない人のことである。
そういった燃え上がっている人には、何かしらのことがほとんど何でも自分の感情に火をつけ燃え上がらせる燃料になる。
自分の意や考えに反することはほぼすべて、自分の怒りのエネルギーとなるのだ。
では、何もしないように、語らないようにと行動を起こさず、口を堅くしていると、それまたその人の怒りの火に油を注ぐことになるから厄介だ。
もう、何をしても、していなくても、その人にとっては面白くないのであり、自分に関わるその人を攻撃したいだけなのだろう。
その人は、平和や問題の解決に進んでいるのではなく、争いや分裂、そして問題の拡大に向かっているのである。
その本人は否定するかもしれないが、争い好きの人間であると言われても仕方ないであろう。
その人自身の感情の問題であり、その人のおさめるべきものである。
しかし、どうもこういった自分の感情をなにかのきっかけや弾みに爆発させたり、人にぶつけるという人がしばしばいる。
一つの原因として考えられるのが、感受性の問題である。
その人の心の受け取り方が、受け取る間口が少々特殊なのかもしれない。
つまり、「人は、相手は、自分に対して○○だと思っているんでしょ!△△を求めているに違いない!」
という、まだはっきりと分からない人の自分に対する思いや要求を、自分で勝手に決めつけて思い込んでいることである。
人が自分をどう思い、何を求めているかが、良いイメージで受け取れていれば、その人は気分がよく、上機嫌になるわけである。
しかし、悪いイメージで受け取った場合、その人は気分を害し、怒りや腹立たしさが湧いてくるのだ。
自分の受け口、受け取り方次第でその人の感情、気分は変わるのであるから、その人に対応している人はたいへんである。
だから、相手がはっきりと言っていないことでも悪いイメージで受け取り続け、次から次へと感情に火が付き続け、収拾がつかないということが起こる。
いったん着火したら次から次へと燃え広がる一方であり、鎮火に向かうということを知らない。
この、人の自分に対する思いの勝手な決めつけは、困ったものであり、厄介なものである。
悪いほうに勝手に受け取り続けるということは、いわば、「被害妄想」である。
たしかに人が自分に対して悪いこと、嫌なことを思ったり、言って来ることはある。
しかし、すべてがそうではなく、人に対する思いというのは、良いものも、悪いものも、いろいろ混ざっているのが現実である。
しかし、こういった人は、一点に固執してしか判断することができず、悪いものだと思ったら、徹底的に自分を悪く思っていると決めつけるのだ。
相手の言葉や行動の端々に敏感になり、そうと思えるものを拾い上げて自分に受け止めようとしていることさえある。
「私のことを悪く思っているんでしょう!」という思い一色で心を染めてしまう人であり、その思いに心が完全に支配されてほかのことは受け入れられなくなる人である。
わざわざ自分の感情を燃やすものを自分に集めて来なくてもよいようなものなのだが、そうして行き、加速し、そして意固地になって行くから手が付けられない。
物事、両方、右も左も、良いも悪いも、そのまま見ること、受け止めることができないのである。
また、こういった人には、自分を悪く思われる、強迫観念や傷、トラウマのようなものがあることも考えられる。
それは、その人にとって苦しいことであり、悲しいことであるが、そのことによって感情が燃えて怒りを人にぶつけることが許されるわけではない。
原則的に、自分の感情は自分でおさめるべきであり、人にぶつけることは良くない。
人にぶつけるのであれば、それは依存しているのであり、甘えているのである。
または、その相手は自分の怒りをぶつけもよいと軽んじているとも言えるだろう。
その人に強迫観念や傷、トラウマのようなものがあるならば、癒やされるといい。
どうやってか、どのぐらい時間が必要なのかは分からないが、自分に癒やしや回復が必要なことをまず知るとよい。
だれか、補助をしてくれる人やサポーターがいるとよいが、なかなかいないものだ。
だからと言って、身近な人、家族や伴侶に怒りの感情をぶつけるのは良くない。
でも、こういった人は外の人に対しては頑張ってよい態度を貫き、内側や身内の人、一番近い人に対して厳しく怒りをぶつけてくるものである。
結論から言うと、一番は、神に受け入れられていることを知り、それを心で味わい、心の緊張が解かれて行くことだ。
その人は、おそらく心の底で緊張し、神経質になり、自分の存在を守らなければならない恐れを無意識のうちにか感じているのかもしれない。
その解決を人に求めるのは、結果的に問題を引き起こすことになる。
神に全身全霊、受け入れられていることを知り、味わえるとよい。
良い自分だけでなく、悪い自分もである。
それは、神の子イエス・キリストがかかられた十字架によってである。
どんな状態の自分も、赦され、受け入れられているという、心の底からの安心感である。
これは、人から得ることはできないものであるが、無意識にでも人から得ようとしている場合に人間関係の問題が生じる。
自分の良い部分や、よい状態の自分しか受けいれてもらえないという意識が潜在的にある人は、心の底で緊張し、よい自分を演じ、頑張り続けるものだ。
しかし、そういった緊張や演じること、頑張りはどこかで爆発するか、挫折するか、人との摩擦を生むだろう。
まったくもって緊張せず、演じず、頑張らない自分が受け入れられるという安心感が、人には必要なのである。
クリスチャンという名目が自分につくと、なおさら良い自分(クリスチャン)を演じ、頑張り、緊張しているという場合がある。
良いことに励むのは良いことであるが、その土台には、良くない自分、何もしていないでも受け入れてもらえているという心の安心感が必要である。
このことを、十字架の救いは知っていても、自分に良く知らないクリスチャンは、意外と多いのではないだろうか。
そうして頑張って、演じて、力を込めて、感情の火が燃えやすく、さらには火が燃え移りやすい人がいるように思えてならない。
あなたは、自分がそのまま、悪い部分、何もできない部分も含めて、そのまま神に受け入れられているという実感があるだろうか。
もし、ないとしても、十字架を見て受け入れるならば、それが分かって来るのでおすすめする。
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