神の国は来るもの

イエスがその弟子たちに教えられた祈りに「主の祈り」と呼ばれるものがある。 その「主の祈り」を伝えられる前に、イエスは次のように言われた。 「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」          (マタイの福音書6章8節(聖書新改訳2017)) これは、父なる神が自分に必要なものを知らないかのように考えて祈る思い違いについて言われている。 そして続けて、「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」と言われた。 その「主の祈り」の中に次のようにある。 「御国が来ますように」(6章10節) 「御国」つまり「神の国」は自分のところに来るものである。 世の中、人間の一般的な考えはどちらかというと、「御国」、「神の国」に行くということではないだろうか。 イエスは次のようにも言われた。 「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」 「御国」、「神の国」は、私たちが求める前から父なる神は私たちの必要と知っていてくださっているものだ。 私たちのよい行いの報酬ではなく、私たちの必要として私たちのところに来るものである。 それは、天では完全に父のみこころが行われているのと同じように、自分のいるこの地でも父のみこころが行われる状況でもある。 その「御国」、「神の国」は、努力や行いによって自分たちが行くというより、神に造られた者としての当然の必要として自分たちのところに来るというもの…

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反応する人は多いが、応答する人は少ない

ここで私が言う反応とは、働きかけや刺激に対して苦も無く自動的に動くことである。 一方で応答とは、働きかけや刺激に対して、自らの意志や思いをもって自主的に自立して動くことである。 反応は、無理なく自然に出てくる受け身的なものであり、応答は本人の意思がある能動的な行動として定義している。 たとえば、信号は日常社会に当たり前にあるので、青になれば自然に進む。 これはほぼ反応と言える。 周りがしているので自分も流されて同じような行動をとることも、反応していると言えよう。 その行動は、海の魚の群れや空の鳥の大群がまとまって同じような動きをすることと同じとも言えよう。 そういった意味では日本人は反応することが多い国民かもしれない。 しかし、いくら周囲が同じような行動をしていてもそれにただ合わせるのではなく、自分の意志で自分の行動をとることを選ぶのは、応答と言える。 そういった人はいざ一人になっても自分の行動が変わらない。 よい話について反応する人は多い。 興味を持ち、感動し、喜んだりする。 しかし実際に、自分でそのとおりにする人は限られてくる。 つまりよい話に反応する人は多いが、応答する人は少ない。 聖書には、ある主人が祝宴(宴会)に人々を招待する話がある。 招待された人々は、ことごとく自分の都合、自分の生活のために宴会の招待を断った。 彼らには宴会に出席することのできる資格があった。 しかし資格があるからこ…

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神の国はこの世のものではない(ヨハネ18:36)

イエスは、「わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)と、ピラトに対して答えている。 イエスが言う「わたしの国」、それは神の国である。 キリスト者が神の国を捜し、求めるとき、この世のものとして考えると、いつまでも見つからず、わからないのは当然だ。 また、自分たちの概念、価値観をもとにしても見つかるわけがない。 自分たちの理想、居心地の良いところを神の国と勘違いしだすことさえあり得る。 神の国は、この世のものではない。 だからこの世の価値観で捜したり、入ろうとしても無理なのだ。 次元というか、根底から違うことを肝に銘じなければ、自分たちの思い込み、確信で造り上げていく。 思い込みで造り上げられた神の国のようなものは、世から見て実は輝いてはいない。 ただ宗教的だ。 キリストという神、そして十字架がなし遂げたことを真に理解し、受け入れないと、神の国は来ない。 いわゆる、人間が価値観を方向転換しなければならない。 それも、十字架によって。 価値観が逆さになるようなものである。 それを知り、理解しているキリスト者はどのぐらいいるだろうか。 そこに生き、実践して行こうとする者。 御霊により頼む者。 自分を否む者。 本当にキリストだけを見上げる者。 神の国は、キリストによって来ている。

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