「性格」ではなく「性質」の問題

人の心のうちの感情や思いの問題は、その人の「質」の問題である部分があるようだ。 「性格が悪い」とか「性格がいい」とか言うが、それは、外から、ほかの人々から認識できるやや表面的な人間性のことであろう。 だからそれは、相手への印象となり、先入観となり、固定観念となり、誤解や思い違いの原因にもなる。 またこの性質というのは、相手や周りを意識してある程度演じ切ることができる部分でもある。 優しい性格と言われる人でもあることに対してはひどく怒ることがあり、厳しい性格と言われる人でも思いのほか優しい部分があったりする。 この性格というは、表面に現れ、相手や周りから認識された部分が強いのであり、本人も周りから言われた自分の性格をそのままうのみにして受け取っていることがある。 しかしここには、相手や周りの自分に対する認識と本当の自分、そして自分で認識している自分と自分でも認識しきれていない本当の自分のギャップがあるものだ。 このことで、本当の自分の姿とはどういうものなのかと悩む人も度々いる。 結局は、相手や周り、そして自分が認識している「性格」ではなく、認識しきれていない「性質」の問題ということになる。 いわゆるその人の「質」の部分である。 たとえば同じ野球のバットでも質が異なるものがある。 どちらもボールを打って飛ばすものであり、ある程度の重量があり、硬さがあり、使用法に変わりはない。 しかし、あるバットの質は金属であり、あるバットの品質は…

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意固地な人はたいへん・・・

意固地な人、頑固な人、頑なな人、強情な人はたいへんである。 周りが大変だ。 自分が病気であっても病院へは行かないといったたぐいの意固地だ。 本人がそういうのなら仕方ないのかもしれない。 もっと厄介なのは、自分を正しいとする意固地だ。 自分は正しいので、イエスのところへは行かず、イエスの招きに応えない。 でも、自分ではイエスの招きに応えていると思っているし、応えているから正しいと思っている。 自分には罪があると認める人が、イエスの招きに本当に応えることができる。 自分を正しいと思っている意固地な人は、大変な思い違いをしている可能性大である。 自分の自己理解だけで進んでいる可能性大である。 視野が一方的である可能性大である。 どうしたらそうなってしまうのか? ずっとちやほやされてきたのか、わがままを通すことができてきたのか、それで自分はいつも正しいと思うことが定着してしまったのか・・・ 意固地はたいへんであり、手が付けられない。 パウロのように、神様からの強烈な衝撃を受けないと変わらないかもしれない。 意固地は、すぐ近くの恵みに気づかない。 自分がすべてだからだ。 意固地は、自分が窮地に立たされるほど強がる。 弱さを認めようとしない。 だから、神も働かれない。 自分で努力したことが、神が働かれたことだと思い込む。 だからひそかに自分を誇る。 自分で自分を生きている自分中心…

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性格ではなく、考えを変える

性格とは、その人の固有の感情・意志の傾向であり、それがその人の行動となる。 性分、生まれつきの気質と言ってもよいだろう。 自分の性格もそうだが、他人の性格も変えるのは難しい。 自分の性格も他人の性格も変わればよいのだが、変えようとしてうまく行かない経験をしたことがあるのではないだろうか。 かえって自分にも他人にも、無理が生じたことが多いのではないだろうか。 決して変わらないとは言わないし、変わろうとしないほうがよいとは言わない。 しかし、生半可に変えようとしないほうがよい。 もし、変わろうとしたとしても、本人の根底部分では変わることに抵抗している。 変えるのは、その人の考え方だ。 考え方、思い、価値観、物の見方である。 性格は変わらないくても、その人の考え方、思い、価値観、物の見方が変われば、その人の行動が変わって来る。 私たちそれぞれには、自分に合う性格、合わない性格の人が必ず存在する。 それぞれ相手の、そして自分の性格を変えようとしてもうまく行かないどころか、かえって難しいことになる。 しかし、その人の、そして自分の考え方、思い、価値観、物の見方を変えることによって、それぞれの行動が変化してくる。 そして、性格が異なったり、合わなかったりしても、ある程度はうまく行くことができる。 ただ、考え方、思い、価値観、物の見方が固定的になっていることがある。 そんな場合、本人が受け入れることのできるよいも…

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